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坂の上の雲(by 司馬遼太郎:1972) [読書'16]

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 司馬遼太郎作品の中で、特に長編の「翔ぶが如く」を読んだのが昨年の秋。読み終えていない巻をドイツへ持って行くのは嫌だったので、出発直前まで粘って読みました。内容より「読み終わった」達成感の方が大きかった気もします。その次に長編であると言われている「坂の上の雲」を今回読み終えることが出来ました。

 ドイツで会った日本人の知り合いが司馬遼太郎ファンで、彼の作品をいくつか持っていました。「坂の上の雲」も揃えていたので、借りて読みました。司馬遼太郎作品は勢いで、バーッと短期間で読むのですが、今回は読み終わるのに4ヶ月もかかりました。学期中で忙しかったというのもありますが、登場人物が多かったのと戦争の描写がちょっと長すぎた感じがしました。司馬遼太郎作品で、自分の好きな作品を思い浮かべてみると、どれも一つの人物に焦点を当てたものがほとんどです。小さい頃から伝記が好きなので、人物一人を中心にその周りの出来事を描くというパターンが個人的には好きです。確かに「坂の上の雲」も前半は秋山兄弟(兄が日本騎兵のトップ、弟が海軍参謀)と正岡子規が描かれていて、結構順調に読み進めていました。が、後半はロシア側、そして各戦地の状況を点々としている感じがしました。 日露戦争自体、偶然、両者の思い込み、状況に対する超楽観主義、これらが重要な場面で大きな役割を担っている感じが、この作品では強かったです。私はどちらかというと、三国志などのように、戦略があって、その戦略通りにいくかどうか、ということを見ていくことが好きなので、この小説内で描かれている戦いは「行き当たりばったり」の感じがしてなりませんでした。

 読み進めるのに時間がかかった更なる理由が、明治維新後も続く、藩閥主義。変な言い方ですが、個人的に、明治維新前では長州藩が好きです。明治維新で中心となった人物を見ていくと長州藩が人物大国(藩)といっても過言ではありません。もちろん問題となるような人物も何人か居ましたが、私が好きな人物は長州藩出身が多い気がします。「坂の上の雲」が描かれる、明治という新しい時代を迎えても、どこの藩出身かというのがものをいいます。上官の出身藩が長州藩だから、その部下は(力が無くても)長州藩であれば優遇されるという状態が軍で続いていたようです。「新しい時代」を迎えたようで、変わっていない感じはこういったところから来るのかな、と思ったりしながら読みました。

 「坂の上の雲」の作品そのものというよりかは、描かれている状況に対して色々不満を感じてしまいました。それでも司馬遼太郎作品、表現はやっぱりしっくりくるものが多く、今回もたくさんノートに書き写しました。その中で最も印象に残ったものを少し長いですが、紹介したいと思います。秋山知之が正岡子規に対して現在の日本海軍の状況を語るシーンです。

「いや、概念をじゃな、たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ。…もう、海軍はこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、という固定概念(かきがら)がついている。おそろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず平気で司令室や艦長室のやわらかいイスにどっかりすわりこんでいることじゃ…素人というのは智恵が浅いかわりに、固定概念がないから、必要で合理的だとおもうことはどしどし採用して実行する」

 秋山真之が、海軍の体制に対してこぼした言葉ですが、色々な局面でも言えることだと思います。私の身近な例でいうと、まさにフィールドワークを行う際の鉄則のような表現です。何が起こっているのか状況を捉える知恵や知識はある程度必要だけれど、その知識と合うように状況を無理矢理「解釈」することだけは避けるべきということでしょうか。
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